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善養院(ぜんよういん)は、東京都世田谷区新町にある寺院。曹洞宗に属し、豪徳寺の末寺として元和2年(1616年)に創建されたと伝えられる〔〔。江戸時代と明治時代の計2回、火事で全焼したが、明治8年(1884年)に再建された〔〔〔世田谷区 善養院 PORTAL TOKYO 東京ガイド、2012年8月2日閲覧。〕。本堂及び庫裏は、平成20年(2008年)に世田谷区登録有形文化財に登録された〔〔〔。 この寺院には、古狸と和尚が意地を張り合う「善養院のちんちろりん」という昔話が伝わっている〔。 == 歴史 == 善養院は大山街道の南に位置する〔〔。江戸時代後期の文政11年(1828年)に成立した地誌『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では、「本堂七間に五間〔仏堂、神社本殿等の規模を示す「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する。〕なり、(中略)薬師堂本堂の向にあり」と記述し、所在地については「世田ケ谷村枝郷新町村」とし、傍らに稲荷社の小祠があるとしている〔〔『世田谷区文化財報告書-20-』1頁。〕。 明治5年(1872年)の『禅臨済宗・禅曹洞宗・禅黄檗宗本末一派寺院明帳II』及び明治10年(1877年)の『曹洞宗明細簿』によれば、元和2年(1616年)に大場豊前守義陸という人物が開基し、門解蘆関(承応3年2月13日遷化)〔が承応2年(1653年)10月に開山した。蘆関は豪徳寺第2世であり、善養院は豪徳寺の末寺である〔〔〔。開基と開山について、『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では「開基ハ家嶽善養庵主トイヘリ」、「開山ハ明壺麟鏡和尚。寛永九年九月十二日寂セリ」と記述している〔。ただし、「家嶽善養庵主」という人物のことについては「イカナル者ニヤ、ソノ詳ナルコトヲ伝ヘズ」とも記述しており、詳細は不明である〔。 善養院は寺伝によれば、万延元年(1860年)2月と明治5年(1872年)の2回、火事で全焼した〔〔〔〔。万延元年の火事の後、檀家の人々は寄付を募り、文久3年(1863年)に再建を果たした〔。この時に記された『旦中勧化取立覚帳』という書類があり、当時の檀家の人々の尽力を知ることができる〔。しかし、明治5年にまたも火事で焼失したため廃寺となった〔〔〔〔『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、2回目の焼失を明治7年(1874年)のことと記述している。〕。 明治8年(1875年)8月、当時の住職大場真成和尚が豪徳寺第27世大溪雪厳和尚の援助を受けて善養院を再建した〔〔『せたがやの散歩道』などでは再建を明治17年(1884年)のこととしているが、ここでは『世田谷区寺院台帳』及び『世田谷区文化財調査報告書-20-』の記述に拠った。〕。善養院の本堂は、寺伝によると豪徳寺境内にあった井伊家墓参の休憩所(照心堂)を譲り受けて再建したものとされていた〔〔。豪徳寺側の資料では、照心堂は休憩所ではなく経蔵であり、明治7年(1874年)から明治9年(1876年)の間に豪徳寺所有の不動産から書類上除去された上で、末寺の善養院に移築されたと推定されている〔〔『史料に見る江戸時代の世田谷』38頁。〕〔『世田谷区文化財報告書-20-』5頁。〕。その他に雪厳は如意輪観世音菩薩木像や誕生仏、香炉や半鐘などを寄付するなど、寺の整備に大きな役割を果たした〔。 善養院の本堂は、昭和10年(1935年)に総工費4万2,000円をかけ、台湾ヒノキ材を使用して新築されたため、旧本堂は世田谷区桜1丁目の勝光院(曹洞宗)に移築された〔〔〔『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、本堂の新築を大正14年(1925年)から2年間の間と記述している。〕。善養院は、世田谷20番観世音霊場とされている〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「善養院 (世田谷区)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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